チャイニーズポップス界の実力派女性ミュージシャントライアングル」(長い)
のうちのひとりは彼女だと、わたしは勝手に思っています。
そして、「チャイニーズポップス界のバンドサウンドの女王」
(なにそれ)
は間違いなく彼女だと、わたしは勝手に思いこんでいます。
彼女の名前は戴佩妮。(ダイ・ペイニー)
英語で書くとペニー・ダイ。 (カタカナやん)
おもに台湾で音楽活動をしている、
中国系マレーシア人のシンガーソングライターです。
中文名がペイニーで英文名がPenny......、なんかおもしろいですね。 (そう?)
作詞作曲はもちろんのこと、楽曲のアレンジからプロデュースまでなんでもひとりでやってしまう……らしい。
いわゆる音楽才女、なのだけれど、とくに、キレとノリのいい、ロック風バンドサウンドをつくらせたら、
たぶんだれにも負けない。
(その裏返しかどうかはわからないが、バラード系の曲作りはちょっと印象が弱い感じ。……とおもう)
じつは計算ずくなのかもしれないけれど、天性と感性にまかせて勢いで作りました、
勢いでアレンジしました、勢いで録りました、という曲風がいい。
それなりに商業路線に乗りつつ、自分のやりたいようにやってる、とでも言いたさげなスタンスがいい。
線が細くて高めだけど力のあるボーカルがいい。
風通しがよくて、スピード感があって、力強くて、
それでいてかつうるさすぎない、その絶妙なロック加減がいい。
洋楽っぽさがビンビン伝わってくる、ペニーのなかの「西」と、
東南アジアっぽいメロディーや歌い方がところどころに表れる「東」、
その、洋楽と民族音楽の融合(というのか?)、東西のミックスの絶妙さがいい。
いい、いい、としか書いてませんが、いいものはほんとうにいいものです。
わたしは、「水中央」という曲でノックアウトされました。(「No Penn, No Gain」というアルバムに収録)
これも、ガムランでも始まりそうな東南亜っぽさと、ギターロック味が融合した、しびれる一曲でありました。
2004年3月にリリースされた現時点での最新アルバム、「愛瘋了」も必聴かと。
それまでのペニーの特徴のひとつであったロック風味がやや薄くなったかな、という印象ですが、
ジャズセッションみたいな曲が増えてます。
個人的には、彼女の持ち味を生かしたさわやかな曲《遊楽園》、
息もつかせぬ展開が大好きなジャズロック(ってあるのか?)な《It's Alright》、
どこがPennyらしいとはいえないけれど、Pennyらしさがビンビン感じられる《之間》、
にやられました。
そして、わたしがこのアルバムのなかでいちばん好きなのが、《往前飛》という曲。
どこか泥臭いメロディー運びと、ハーモニカの音色にしんみりし、歌詞に泣かされます。
たとえば、日本の音楽でいえば、aikoはどの曲を聴いても、曲からaikoっぽさがにじみでているように、
一発でaikoだとわかるように、
(それが、いいか悪いかは別として)
Pennyも、どのアルバムのどの曲をどこから聴いても、金太郎アメのように、Pennyらしさがビシビシにじみ出てくる、
そんな音楽人です。
(それが、いいか悪いかは別として)
そんなところが、Pennyの魅力かな……と。
とりあえず、中華ポップスに興味を持った人なら、いちど戴佩妮を聴いてみることをお勧めします。
やけにアダルトなCDジャケットに、手を引っ込めないでください!
(これ以前のアルバムは、ぜんぜんこんなのじゃなくて、
もうちょっと「音楽創作人のねえちゃん」って感じだったのにねえ)
というわけで、チャイニーズポップス界の実力派女性バンドサウンド金太郎アメ……
…じゃなくて、ごっちゃになってるぞ。
チャイニーズポップス界のバンドサウンドの女王(公称じゃないけどね)、戴佩妮についてでした。
またまた長くなってすいませんです。
さて。
7月だってのに梅雨に入ったばかりのこの先の見えないうっとおしさのなか、いかがお過ごしでしょうか。
とかなんだとか言って、わたしは雨が好きです。
さて。
このごろ本屋に行くと、芸能雑誌のコーナーに、「韓流」とならんで、
「台流」というタイトルの雑誌がちらほらと目に付く。
韓国エンターテインメントの次は、中華エンターテインメントってことか。
(わたくし、もともと、韓国音楽や映画は好きなほうだったのですが、韓流ブームの到来で、すこし距離感を覚えるようになってしまいました。 あの、韓流の、いかにもエンターテインメントを『消費』しているような感じ、おなかいっぱいなのにさらに口に詰め込まれるような、これでもかというマスコミの姿勢が苦手です。 えげつないんだもん。韓国エンタメそのものは今でも好きよ。)
わたしのような中華圏エンターテイメントマニアとしては、いままで、輸入通販に頼っていた中華圏の映画DVDがレンタルでも借りれるようになるかもとか、中華圏のドラマが日本でも見れるようになるかもとか、好きな俳優やミュージシャンが雑誌に載るかもとか、甘い期待は膨らみつつあるけれど、一方でどこか複雑。
「え? 中国(台湾・香港)ドラマ(映画・音楽)好きなの? やっぱりブームだから?」と聞かれるのは悲しいけれど、「その前からずっと好きだったんだい! ブームがわたしを追っかけてきたんだい!」 と答えるのは大人気ないから我慢するとして、
F4好きでもないのに「F4好きなの?」と聞かれるのも否定すればいいだけのハナシだから我慢するとして、
一過性のブームとして、特定の俳優や歌手だけが消費され尽くされるのを見てるのはもっと悲しい。
ブームが過ぎ去ればもっともっと悲しい。 (ほっとしたりして?)
まあ、まだ中華エンタメブームはブレイクしていないので、とらぬ狸の皮算用はやめにするとして。
(←このことわざ、使い方あってますか?)
しかし、「台流」とはなんぞや。 「韓流」の韓が韓国の韓であるのにならって、台湾の台で台流だとな??
ちょっとおまち。了見が狭すぎやしませんか?
台流というからには、台湾芸能だけ流行らせるおつもりですか?
ふたことみこと申し上げたい。 (注;長くなります)
わたしが中国に行って、そこで半年過ごして感じたのは、「中華エンタメってとってもボーダーレス!」てことでした。
政治的には、中国大陸と香港と台湾とその他地域はある程度壁があるけれど、
芸能分野では、それぞれの地域の枠組みこそあれ、壁はほとんどないといっていい。
テレビに出ている俳優や歌手は、ちゃんと調べないと、
大陸の人だか香港の人だか台湾の人だか分からないことがある。
上海では、香港や台湾の歌手がしょっちゅうコンサートを開いていた。
もちろん、中国のほかの都市でも港台(香港台湾をひっくるめてこういう)歌手の演唱会はしょっちゅうだ。
(中国大陸では海賊版の横行でCDの売上は望めない、でもファンは多い……という実情はあるんだろうけど)
映画やドラマでもそう。大陸(or港台)の監督のもと、大陸と香港と台湾の俳優が入り混じって映画を撮る、
というのはザラです。
たとえば中国大陸の今年の正月映画、『天下無賊』を例にとると、
監督は大陸の馮小剛、出演はアンディ・ラウ(香港)、レネ・リウ(台湾)、葛優(大陸)と三地域そろってます。
こういうのはザラで、さらにマレーシア華人とかシンガポール華人なんかが加わることもあり、
もうだれがどこの俳優だなんていってられないのが現状かと。
…つまり、なにがいいたかったのかというと、
はじめのうちは台流台流といってても、もともと中華エンタメというのは、懐の広~い奥深~い世界なので、
台湾だけではすまなくなるだろうということ。
(だから、わたしもあえて、“中華圏”とかまどろっこしい呼び方をしているわけで。
だれかもっとスマートな呼び方を教えてください)
たとえば、マスコミのねらいはいわゆる「イケメン」でしょうが、
あれやこれやとたどっていくうちに、大陸のイケメンにも手をつけざるをえなくなる。
そりゃいっぱいいるわな? 胡兵とかリウ・イエとか陳坤とか、王学兵とか楊坤とかですか?
(最後のふたりはわたしの趣味)
だから、台流というネーミングでは、了見が狭すぎて、あとから苦しくなるかもということ。
マスコミ各位にはもっとましなネーミングを考えていただきたい。
そういえば、以前女性週刊誌に「華流」という名前をつけられてたこともあったっけ。
でも、なんと読むのかさえわからなかった。 かりゅう? はなりゅう? ほわりゅう?
というか、「○流」という形式にこだわることじたい二番煎じだなあオイ! (こだわってるのはおまいだろ)
なんか、ブームが来る前から終わっているような気がします。
いや、むしろ、ブームなんて来ないような気さえします。
来なくていいような気もします。
ひとりでゆっくり楽しみます。
別来打擾我的心。(わたしの心をさわがせないで)
…関係あるようで関係ないですが、なんか、最近、レネ・リウ(劉若英、台湾の女優さんです)の映画をよく見てるので、これから「レネ・リウ映画祭」として感想などたまにアップするかもしれません。
また見かけたらよろしう。
以前はぜんぜんわからなかったことでも、大人になるとわかることって、ある。
子供の頃は食べられなかったものが食べられるようになる…ということと似ているけれど、それとはまたちょっと違う感動がある。
(わたし、大人なんですか……? という永遠の突っ込みは、今はちょっと置いといて!!!)
ヘミングウェイの『老人と海』。
中学校の頃、母に勧められて読んだ。
薄くて感動作らしいので、夏休みの読書感想文はこれで書こう!
…と思って読み始めた。
…がんばって最後まで読んだけれど、ちっともおもしろくなかった。
感動なんてもってのほか。
えーなに? おじいちゃんが漁に出て? 大カジキを釣ったけど、けっきょく戦利品はサメにやられて骨だけになっちゃったって?
それだけ???
…というのが、正直な感想だった。 もちろん読書感想文も書けなかった。
(いまならば、「名作といわれているけどどこがおもしろいのかぜんぜんわかりませんでした」という感想でも書けようが、当時のわたしはまじめで小心だった)
その、『老人と海』を、はたち過ぎてから何度か読み返した。
いまでも、どこがおもしろいのかなんてはっきりいえない。
でも、読むたびに好きになってくる。
読むだけで、キューバの青い海と照りつける陽射しを感じられる。それだけで満足。
魚の肉をそのまま食べたときの味がする。それだけで満足。
けっきょく、『老人と海』の醍醐味はどこにあるんだろう?
わからないけれど、そう思いながらもまた読み返すだろう。
10年後に読むと、また違う感想があるかもしれない。
あなたには、そういう本がありますか?
昨日の話だけれど、ものすごく激しい雨が降った。
昨日は家にいたので、午後2時ごろ、用事で出かけようとすると、ざあざあざあざあ。
激しい音は聞いていたけれど、玄関を開けて、いっしゅん立ち尽くした。
むちゃくちゃに降る。
むきになって降る。
ここ一ヶ月くらい、ずっと降ってなかったくせに。
降るときにだけ、こんなになって見境なく降る。
空から槍が降る、とは、こんな風景のことを言うのかもしれない。
雨が凶器みたいに見えたので、けっきょく、出かけるのはやめにした。
弟が小学校から帰ってきて、「グラウンドが洪水になっとった」とやたら興奮していた。
でも、その洪水は冗談じゃすまされなかったらしい。
今朝の新聞を見ると、となりの新潟県で豪雨被害が出たっていうじゃないか。
ここのところ、ずっと水不足で、たしかに雨は欲しかった。
うちの畑も枯れ枯れだった。
待ち望んでた雨のはずだった。
でも、雨は凶器になってしまった。
新潟の被害にはぜんぜんおよばないけれど、わが家の庭のハーブも雨で倒されてしまった。
世の中はデジタル化しているというけれど、気候までデジタル化することはないじゃないか、とこのごろ思う。
1かゼロか、ぜんぜん降らないか降りすぎるか、の両極端。
今年の夏も、台風や大水が怖い。
その一方じゃ、水不足が心配されていたり。
ところで。
このあいだ知り合いのおじさんと話していてはじめて知ったことがひとつ。
わし「今年、梅雨来ませんよねえ。」
おじさん「そうですねえ……」
わし「このまま、雨ぜんぜん降らないんですかね?」
おじさん「一年間の降水量って決まっているから、あとになってドバーーっと降るかもしれないですねえ。」
…えっっ、一年間の降水量って決まってるんですか?
じゃあ、ある期間降らなかったら、あとで埋め合わせのため(?)にドバーーっと降らなきゃいけないんですか?
トータルで一緒なら、雨が降りまくった年とかぜんぜん降らなかった年、というのは、
「降りまくった気がする年」 「ぜんぜん降らなかったような印象がある年」ってだけで、じつは毎年いっしょなんですか??
…と聞きたかったけれど聞くに聞けず、「ふんふん」とうなずいていました。
あとで家族に聞くと、少なくとも両親は知っていたので、当たり前田のクラッカ、常識らしい。
わたしは知らなかった。
…いや、なにせ、文系なもので。
(注:自分の無知を文系のせいにして、文系をおとしめてはいけない)
なるほどー、それでこの豪雨ね。
と、納得したしだいでありました。ハイ。
昨日の話だけれど、ものすごく激しい雨が降った。
昨日は家にいたので、午後2時ごろ、用事で出かけようとすると、ざあざあざあざあ。
激しい音は聞いていたけれど、玄関を開けて、いっしゅん立ち尽くした。
むちゃくちゃに降る。
むきになって降る。
ここ一ヶ月くらい、ずっと降ってなかったくせに。
降るときにだけ、こんなになって見境なく降る。
空から槍が降る、とは、こんな風景のことを言うのかもしれない。
雨が凶器みたいに見えたので、けっきょく、出かけるのはやめにした。
弟が小学校から帰ってきて、「グラウンドが洪水になっとった」とやたら興奮していた。
でも、その洪水は冗談じゃすまされなかったらしい。
今朝の新聞を見ると、となりの新潟県で豪雨被害が出たっていうじゃないか。
ここのところ、ずっと水不足で、たしかに雨は欲しかった。
うちの畑も枯れ枯れだった。
待ち望んでた雨のはずだった。
でも、雨は凶器になってしまった。
新潟の被害にはぜんぜんおよばないけれど、わが家の庭のハーブも雨で倒されてしまった。
世の中はデジタル化しているというけれど、気候までデジタル化することはないじゃないか、とこのごろ思う。
1かゼロか、ぜんぜん降らないか降りすぎるか、の両極端。
今年の夏も、台風や大水が怖い。
その一方じゃ、水不足が心配されていたり。
ところで。
このあいだ知り合いのおじさんと話していてはじめて知ったことがひとつ。
わし「今年、梅雨来ませんよねえ。」
おじさん「そうですねえ……」
わし「このまま、雨ぜんぜん降らないんですかね?」
おじさん「一年間の降水量って決まっているから、あとになってドバーーっと降るかもしれないですねえ。」
…えっっ、一年間の降水量って決まってるんですか?
じゃあ、ある期間降らなかったら、あとで埋め合わせのため(?)にドバーーっと降らなきゃいけないんですか?
トータルで一緒なら、雨が降りまくった年とかぜんぜん降らなかった年、というのは、
「降りまくった気がする年」 「ぜんぜん降らなかったような印象がある年」ってだけで、じつは毎年いっしょなんですか??
…と聞きたかったけれど聞くに聞けず、「ふんふん」とうなずいていました。
あとで家族に聞くと、少なくとも両親は知っていたので、当たり前田のクラッカ、常識らしい。
わたしは知らなかった。
…いや、なにせ、文系なもので。
(注:自分の無知を文系のせいにして、文系をおとしめてはいけない)
なるほどー、それでこの豪雨ね。
と、納得したしだいでありました。ハイ。